文事にも秀でた猛将として知られる吉川元春ですが、その片鱗は早くも12歳の時に現れました。
天文9年(1540)8月10日、尼子晴久は毛利元就討伐に向け三万の軍を率いて月山富田城(島根県 安来市)を出陣、9月4日に吉田郡山城を囲むと城下を焼き払います。兵数に劣る元就は大内義隆に救援を依頼、義隆は重臣・陶隆房(晴賢)を派遣しました。
12月3日に隆房の援軍が到着すると、翌年正月に元就は3千騎を率いて尼子勢に攻撃をかけようとしました。その際、まだ元服していない吉川元春(幼名少輔次郎)が申し出ました。
「今まで数々の合戦があり、その都度私は出陣したいと申しましたが、お許しがないため空しく留まっていました。今回こそは是非ともお供させて下さい」
次郎からの重ねての申し出でしたが元就は許さず、次回こそ出陣せよと諭しました。ところが次郎は引き下がりません。
「私も弓矢を取る身、幼いからと言って敵に向かえないなどということがありましょうか。是非お供したく思います」
元就は強情な次郎にあきれ、井上河内守(元兼)に次郎を連れて行けと命じました。これに次郎は腹を立て
「ああ、私が出陣すれば並の将には劣らぬものを。情けない仰せかな」
次郎はこう言ってはらはらと涙を流すと、大いに感じた井上は次郎を慰めながら城内に戻ろうとしました。と、その時・・・
「おのれ、汝は私を出陣させまいとするのか!」
激怒した次郎は、何と刀を抜いて井上に斬りかかろうとしました。こんな状況だったので、もう次郎を止めようとする者はなく、次郎は軍勢を率いて元就の後を追いました。元就に追いつくと、次郎は
「今回こそ是非ともお許しを賜り、お供させて頂きます」
と繰り返しました。
「お前は若いくせに不敵な者よのう。ここまで来たからには帰れとも言えぬ。よし、供をせよ」
元就はにっこり笑うと次郎を連れて軍を進めました。
この戦いで次郎は大言に恥じぬ活躍をしたということです。この日次郎は、元服して元春と名乗りました。以後元春は数々の戦いで活躍、やがて山陰方面司令官を務め毛利家を支え続けることになります。